2013年09月30日
外国語習得に関する話②
英語の勉強において日本語のタガを外すことが、必須であるというお話をしました。
地道に英和や和英の辞書を使って勉強していくことは、中学生の段階で基礎の文法構造を日本語と対比させながら理解する上で必要なことです。
しかし、これが高等学校一年生ぐらいのレベルになってくると、日本語の枠の中で理解することが逆に困難になってくるのです。
例えば、中学生で勉強するRunという単語。ランニングのRunとして最初覚えるため、runは「走る」という「意味」だと誰もが最初思っているわけです。
仏教に関わるお話の中に、インドの盲人たちが、象の一部だけを触って象について語る寓話があります。もともとは、自分の主張の正当性を主張して対立が深まるものの、結局同じ生き物であることがわかり、和解をするというお話だそうです。
少し意味合いは違うかもしれませんが、この象の理解の仕方とRunを「走る」と理解する方法は非常に似ているように思います。
高校に入ると、走ると思っていたrunが突然、「運営する、経営する、流れる、流す、持続する」などなど様々な新たな「意味」をもって説明されます。だいたい、英語が嫌になるのはこの頃なのではないでしょうか・・・。
しかし、これは、象の他の部分を別物として教えれるようなもので、結局は、runはどこまでいってもrunという一つの意味なのだというholistic全体的な理解を得ることができないために起きる混乱なのです。
以前、NHKで上智大学教授の吉田研作氏が指導された英会話番組がありましたが、そこで単語のコアイメージについて若い学生さんがお話をされていました。
ここで番組が伝えんとしていたことは、runの言葉の概念は「走る」「運営する」「流す」「流れる」「持続する」等の日本語の概念を全て包括しているから、これを日本語のタガにはめて分けて覚えるのではなく、「run」を「run」としてその用いられ方といっしょに一つの概念として覚えなくてはならないということなのです。
これと逆のパターンが、日本語の「料理をする」という言葉。
この意味について、日本に来た外人さんが「ちょっと意味を教えてください」と尋ね、これに対して私たちが「cookingのことですよ」と伝えたとしならば、それは、自分たちが「run」は「走る」という意味ですよと教わるようなもので、「料理する」の全てを伝えたことにはならないのです。
熱を加える行為であれば「cook」、熱を加えない行為であれば「prepare」と、英語の枠の中では二つの概念に分けて考えられるため、その外人さんは「料理する」という言葉の意味の半分だけを知って分かった気になってしまうわけです。
「料理する」という言葉が、「cook」「prepare」等を包括しているということです。
このことは、walk、read、sleepといったほかの単語でも起こりますから、いずれはwalkをwalkとして、readをreadとして、また、sleepはsleepとして英単語が包括する意味をそのままに理解しなければ、日本語の枠では限界がでてきてしまい、理解不能になってしまうわけです。
不立文字という言葉が禅にありますが、自分たちの知っている言葉を用いて世の中を理解しようとすると、どこかで限界が出てきてしまうというのと、スケールは小さいですが似ているような気がします。
話は脱線しますが、立場や職種に対する考え方も若干似ているのかもしれません。
教師や宗教家や政治家やらエンジニアやら格闘家やらというのは、社会的な立場として一つの固定された役割の幅がありますが、その枠とは関係ないかたちで社会的な機能を果たそうと思ったら、そのいずれにも関わらざるを得ないことになるでしょうし、同時に、そのいずれの枠にも縛られないことになるでしょう。
とにかく、日本語の枠を外して英語を理解するというのは、各英語の「働き」にのみに注意し、どう訳されているか、どう定義づけられているか、という縛りにあまり惑わされないようにするということだと思って頂けたら間違いないでしょう。
Posted by Gyokei Yokoyama at
00:25
2013年09月29日
外国語習得に関する話①
ブログをちゃんとジャンル別に分けていないので非常にだらしがないと自分でも思っているのですが、性格上、パターンがすべて出揃ってから改めて、カテゴリーに分けて物事を見る方なのでどうかご容赦ください。
①北米で説かれている現代仏教寺院の英語から日本語への現代語での訳や仏教(宗教)に関わる諸活動、それから、②州政府などのサービスや制度のこと、③外国語習得に関する情報といった具合に三つに分かれるんではなかろうかと思います。
先日、外国語習得について、初期段階の訓練として、反復練習とあわせて、日本語の観念を離れていくといったお話をしたところ、日本語を離れていくとは?とご質問を頂きました。
自分が経験的に知っている外国語の習得のフェーズ(段階)としては、初期段階、耳で感知できるようになった後の中期段階、その後、思考的判断が外国語の視点で行われるようになる最終段階の三つがあると思っています。
最初の段階では、辞書などにある例文を読み書きしながら、最初はいろいろな語彙やパターンに触れていき、しっかり記憶に残る単語や表現、あいまいに記憶に残る単語や表現(個人的にこれらをグレーな知識と呼んでいます)、まったく記憶に残らない単語や表現と、だいたい三種類の記憶をつくっていきます。 いや、、、最後の記憶は残らないじゃないかといわれそうですが、意識できる記憶として残らないだけなので本当のことを言えばダークグレーかブラックな知識として蓄積されていくことになるわけです)
で、日本語を離れる初期段階の訓練とはなんぞやというと、
「I promised my son to make a nice tree house by the end of this year. 今年の暮れまでに素敵なツリーハウスを作ってあげると息子に約束した。」という例文が仮にあった場合、例文の訳をみて、全文の意味をとらえ、その後、
I 私は promoised 約束した my 私の son 息子に to make a nice tree house すてきなツリーハウスをつくると by the end of this year今年の終わりまでに」
と英語の語順で、日本語を再構成します。
I promised my son to make a nice house by the end of this year.
その後、英語だけを何度か(ときには30回以上は)繰り返す読み上げます。
とにかく、英語の語順とニュアンスだけでしっくりした感覚が残り、違和感がとれるまでこれをいろいろな例文でやっていきます。
このとき、頭の中では、一度日本語の解体が行われ、英語のパターンに当てはめれた「へんてこ日本語」が再構築されていくことになるわけです。その後、このへんてこ日本語もすぐに解体されて消されなければならない運命にあるわけですが、橋渡しをする役割をもつ中間的な言葉を経て日本語から英語へと言葉の感性をシフトしていくプロセスが実は隠されているのです。
例えば、スペイン語辞書に「?Sabes algun juego divertido con el que entretener la espera? 君は待つ時間をつぶすのに何か面白い遊びをしっているかい?」とあったとしたら、
Sabes 知ってる? alugn 何か jueg 遊び divertido おもしろい con el que それといっしょに entrener つぶす? la espera 待つこと?」
とスペイン語の語順でつかむのですが、この時点で、自分はentrenerという単語を知らないため、後半のentrener la esperaは、待つことをつぶす??? というあいまいな状態で記憶に保管しておく「こと」にするわけです。
その上で、?Sabes algun juego divertido con el que entretener la espera?のイメージをつかめるよう口づさみながら練習をします。
もし会話の中でこれを聞いた場合、知らない単語に出会ったら辞書で調べるか、受け流すかという選択肢があるわけです。
学校のような場であれば辞書を引くことを当然に勧められるでしょうが、実際に生活をするなかで言語を吸収する場合どうしても受け流しながら、あいまいでグレーな言葉を許容していかなければなりません。
このあいまいなグレーな単語の蓄積を放置しておくということは、いかにもだらしがないように思われるかもしれませんが、この断片的に文脈と一緒にのこった言葉の残像は、かならず、再びentrenerという言葉に再開した時に蘇ってきます。(もし蘇らなかったとしても半蘇生状態で記憶の片隅におかれれることになります)
とにかく、大切なことは、残像としてのこっている言葉に再び異なる文脈のなかで出会った時に、過去のおぼろげな記憶をたよりにに意味を「推測し吸収する」ことにあります。
あいまいな状態にしておいた単語を、後に、推測し吸収した場合、その言葉は日本語の枠のなかで定義づけられていない、言語のしがらみから解放された言葉として、英語なら英語の、スペイン語ならスペイン語の姿のまま把握されることになります。
日本語を離れるという意味は、日本語の文法や定義付けのタガからターゲットとなる外国語を最初に外して、ターゲット言語を霞のようなあいまいな記憶のまま保持しつづけて、ターゲット言語中の文脈のなかにある語彙と語彙の関係性から意味を推測し吸収しながら、明瞭な理解を得ていくということです。
こうすることで、日本語でいうところの「正しい意味」とか「正しい表現」という固定した決まりにしばられない、新しい言語による理解をしていくことができるわけです。
この母語を頼りにしない推測と吸収で、外国語を得るくせをある程度までつければ、比較的早い段階で本を読めるようになるような気がします。
いったんグレーな単語に溺れながらでも一冊、二冊と本を読めるようになれば、リーディングに関してはクリアしたも同然といえるでしょう。たぶん。
Posted by Gyokei Yokoyama at
04:03
2013年09月28日
典座教訓 Montreal Zen Center
Montreal Zen Center Practice
The Way may well be long and difficult. Along the Way we must develop care and attention in everything that we do. The following quotation, which stresses this need for care and attention, is taken from a talk given by Zen master Dogen, a 12th Century Japanese Zen Master. Although it was addressed to the monks working in the monastery kitchen, it is equally applicable to all our activities:
道は長く困難を伴うこともあろう。この道を歩む中で、あらゆる行為において心遣いと思いやりを育んでいく。12世紀日本の道元禅師の教えのなかに、この心遣いと思いやりの大切さについてこのような言葉が残されている。
これは典座という台所で仕事をする修行僧にあてられたものであるけれども、同様に私たちの日頃に行いに当てはめることができる。
"When washing the rice, remove any sand you find. In doing so, do not lose a grain of rice. Pay full attention to your work in preparing the meal; attend to every aspect yourself so that it may turn out well. お米を洗うとき砂を取り除くが、このときにはお米を流さないようになさい。精一杯の注意と心遣いをもって料理の支度をなさい。すべてがうまくいくよう、自己のあらゆる側面に気を配りなさい。
Clean the forks, ladles and all other utensils; handle them with equal care and awareness, putting back everything where it naturally belongs. Keep your mind on your work and do not throw things around.
食器を洗い、これを扱うときも、それを元あったところに戻すときにも同様に注意を払いなさい。心を行為に向け保ち、辺りに散らさないようになさい。
When you prepare your food never view the ingredients from some commonly held perspective, nor think about them only with your emotions.
料理をする際には、その食材についてあれこれと世の常識や観念にとらわれた見方をしないように。また、感情的にそれを見たりしないように。
Maintain an attitude that tries to build great temples from ordinary greens, that expounds the Buddha dharma through the most trivial activity.
ありふれた野菜から優れた寺院を構築せんとする、そんな姿勢を保ちなさい。そうすれば、その最も些細な行為が仏法を広げていくでしょう。
Handle even a single leaf of a green in such a way that it manifests the body of Buddha.
小さな野菜の葉一枚さえもそのように扱ったならば、佛身はおのずと見出されるでしょう。
This in turn allows the Buddha to manifest through the leaf. This is a power which you cannot grasp with your rational mind. It operates freely according to the situation, in a most natural way. At the same time, this power functions in our lives to clarify and settle activities and is beneficial to all living beings. "
いえ、むしろ、こうした行為が、一葉を通して仏を世に表出させるといえるでしょう。この力の程は、合理的な見方からはつかみ得ないものです。その場その場で自在にはたらく力であるこそ、もっとも自然であるといえるでしょう。同時に、この力は、私たちの日々の営みや行いを明らかにし、これを整え、あらゆる生き物にとって恵となる力となって作用することでしょう。
The Way may well be long and difficult. Along the Way we must develop care and attention in everything that we do. The following quotation, which stresses this need for care and attention, is taken from a talk given by Zen master Dogen, a 12th Century Japanese Zen Master. Although it was addressed to the monks working in the monastery kitchen, it is equally applicable to all our activities:
道は長く困難を伴うこともあろう。この道を歩む中で、あらゆる行為において心遣いと思いやりを育んでいく。12世紀日本の道元禅師の教えのなかに、この心遣いと思いやりの大切さについてこのような言葉が残されている。
これは典座という台所で仕事をする修行僧にあてられたものであるけれども、同様に私たちの日頃に行いに当てはめることができる。
"When washing the rice, remove any sand you find. In doing so, do not lose a grain of rice. Pay full attention to your work in preparing the meal; attend to every aspect yourself so that it may turn out well. お米を洗うとき砂を取り除くが、このときにはお米を流さないようになさい。精一杯の注意と心遣いをもって料理の支度をなさい。すべてがうまくいくよう、自己のあらゆる側面に気を配りなさい。
Clean the forks, ladles and all other utensils; handle them with equal care and awareness, putting back everything where it naturally belongs. Keep your mind on your work and do not throw things around.
食器を洗い、これを扱うときも、それを元あったところに戻すときにも同様に注意を払いなさい。心を行為に向け保ち、辺りに散らさないようになさい。
When you prepare your food never view the ingredients from some commonly held perspective, nor think about them only with your emotions.
料理をする際には、その食材についてあれこれと世の常識や観念にとらわれた見方をしないように。また、感情的にそれを見たりしないように。
Maintain an attitude that tries to build great temples from ordinary greens, that expounds the Buddha dharma through the most trivial activity.
ありふれた野菜から優れた寺院を構築せんとする、そんな姿勢を保ちなさい。そうすれば、その最も些細な行為が仏法を広げていくでしょう。
Handle even a single leaf of a green in such a way that it manifests the body of Buddha.
小さな野菜の葉一枚さえもそのように扱ったならば、佛身はおのずと見出されるでしょう。
This in turn allows the Buddha to manifest through the leaf. This is a power which you cannot grasp with your rational mind. It operates freely according to the situation, in a most natural way. At the same time, this power functions in our lives to clarify and settle activities and is beneficial to all living beings. "
いえ、むしろ、こうした行為が、一葉を通して仏を世に表出させるといえるでしょう。この力の程は、合理的な見方からはつかみ得ないものです。その場その場で自在にはたらく力であるこそ、もっとも自然であるといえるでしょう。同時に、この力は、私たちの日々の営みや行いを明らかにし、これを整え、あらゆる生き物にとって恵となる力となって作用することでしょう。
Posted by Gyokei Yokoyama at
23:09
2013年09月28日
The Montreal Zen Center
The Montreal Zen Center モントリオール禅センター
カナダ西側のカルガリーへ行く話しをしたところですが、その前に、トロント、ベルビル、モントリオール、ニューキャッスルと、妻の友人や親類の住む町を訪れる予定があります。
以前、トロントの禅センターに訪問したことがありますが、今回は、できればモントリオール禅センターにお邪魔したいと考えています。
フランス文化圏では、北米以上に禅文化が開花していると聞いたことがありますが、モントリオールやケベックなどのカナダのフランス語圏ではどうなのかずっと気になっていたところです。
The Montreal Zen Center
Zen Buddhism is an ancient tradition that has its origins with the teachings of Buddha. A story is told that he was asked to give a talk to a number of people. Instead of speaking, he held up a flower. Tradition tells us that this was the beginning of Zen. The simplicity, directness, practicality, compassion and peace of this little story conveys the spirit of Zen. Buddha's teaching is the same teaching given at the Montreal Zen Center for more than twenty five years.
禅仏教は、釈迦の教えを起源とする古い伝統である。お弟子の前で説法することになったときのこと、彼は、喋る代わりに、蓮華をかかげたという言い伝えがあります。歴史的には、これが禅の始まりとして説かれています。飾らず、真っ直ぐであり、実践本意なところ、深い思いやりと穏やかさに、禅の精神が表れています。モントリオール禅センターでこの25年間伝えられてきたこことは、釈尊の教えそのものなのです。
Vigilance is the path to life eternal, and thoughtlessness the path to death. The vigilant do not die, the thoughtless are as dead already.
-Buddha
目覚めた思慮と気づきが、永遠の命への道であり、思慮の欠落は、死への道である。目覚めた思慮をたもつものは死なず、これを失ったものは既に死んでいるに等しい。
釈尊
The center of gravity of our practice is our everyday life. Members are expected to have a regular practice at home. They must also realize that the value of the practice is expressed in their everyday lives with their families and friends, in their activities at work, and in all other dealings that they have with people. One of the more celebrated Zen sayings is: "Everyday mind is the Way."
私たちの修行の核は、日常の生活そのものにあります。参加する者はみな、各自家で日常的に修行の行為を行っていただきます。これは、修行の意味は、家族や友人と共に過ごす日常生活や、日々の仕事の業務の中で、また、その他もろもろの人間関係の中で見出されることを知って頂くめです。有名な禅の言葉のなかに「平常心是道(ふだんの心こそが道である)」というものがあります。
We do not look for any special spiritual experience, vision, revelation or ecstasy. We can awaken; we can come to see that we are not a thing, a body, a soul, a person, or even a spirit. Fundamentally we are beyond all forms and ideas. This freedom is called satori and satori, seeing into our true nature, is the teaching of our tradition.
私たちは、特別な精神的経験や、幻やお告げ、恍惚を求めまたりすることはありません。私たちの言う覚醒とは、私たちが、物体でも、肉体でも、魂でも、人でも、ましては精神でもないということを見極めることにあります。根源的に、私たちは、あらゆる「事象やかたち」、固定した観念や考え、思いを超えたところから来て今にここにあります。この自由のことを悟りと呼び、見性すなわち、本来そなわる根源的な本性を徹見することが禅の伝統的な教えなのです。
カナダ西側のカルガリーへ行く話しをしたところですが、その前に、トロント、ベルビル、モントリオール、ニューキャッスルと、妻の友人や親類の住む町を訪れる予定があります。
以前、トロントの禅センターに訪問したことがありますが、今回は、できればモントリオール禅センターにお邪魔したいと考えています。
フランス文化圏では、北米以上に禅文化が開花していると聞いたことがありますが、モントリオールやケベックなどのカナダのフランス語圏ではどうなのかずっと気になっていたところです。
The Montreal Zen Center
Zen Buddhism is an ancient tradition that has its origins with the teachings of Buddha. A story is told that he was asked to give a talk to a number of people. Instead of speaking, he held up a flower. Tradition tells us that this was the beginning of Zen. The simplicity, directness, practicality, compassion and peace of this little story conveys the spirit of Zen. Buddha's teaching is the same teaching given at the Montreal Zen Center for more than twenty five years.
禅仏教は、釈迦の教えを起源とする古い伝統である。お弟子の前で説法することになったときのこと、彼は、喋る代わりに、蓮華をかかげたという言い伝えがあります。歴史的には、これが禅の始まりとして説かれています。飾らず、真っ直ぐであり、実践本意なところ、深い思いやりと穏やかさに、禅の精神が表れています。モントリオール禅センターでこの25年間伝えられてきたこことは、釈尊の教えそのものなのです。
Vigilance is the path to life eternal, and thoughtlessness the path to death. The vigilant do not die, the thoughtless are as dead already.
-Buddha
目覚めた思慮と気づきが、永遠の命への道であり、思慮の欠落は、死への道である。目覚めた思慮をたもつものは死なず、これを失ったものは既に死んでいるに等しい。
釈尊
The center of gravity of our practice is our everyday life. Members are expected to have a regular practice at home. They must also realize that the value of the practice is expressed in their everyday lives with their families and friends, in their activities at work, and in all other dealings that they have with people. One of the more celebrated Zen sayings is: "Everyday mind is the Way."
私たちの修行の核は、日常の生活そのものにあります。参加する者はみな、各自家で日常的に修行の行為を行っていただきます。これは、修行の意味は、家族や友人と共に過ごす日常生活や、日々の仕事の業務の中で、また、その他もろもろの人間関係の中で見出されることを知って頂くめです。有名な禅の言葉のなかに「平常心是道(ふだんの心こそが道である)」というものがあります。
We do not look for any special spiritual experience, vision, revelation or ecstasy. We can awaken; we can come to see that we are not a thing, a body, a soul, a person, or even a spirit. Fundamentally we are beyond all forms and ideas. This freedom is called satori and satori, seeing into our true nature, is the teaching of our tradition.
私たちは、特別な精神的経験や、幻やお告げ、恍惚を求めまたりすることはありません。私たちの言う覚醒とは、私たちが、物体でも、肉体でも、魂でも、人でも、ましては精神でもないということを見極めることにあります。根源的に、私たちは、あらゆる「事象やかたち」、固定した観念や考え、思いを超えたところから来て今にここにあります。この自由のことを悟りと呼び、見性すなわち、本来そなわる根源的な本性を徹見することが禅の伝統的な教えなのです。
Posted by Gyokei Yokoyama at
10:17
2013年09月28日
Trip to Calgary カルガリーへ
10月末から1習慣ほどの間、妻が結婚以前に暮らしていたカルガリーの友人宅へお邪魔することに。
カルガリーに来るのは、二度目ですが、一度目は移動で立ち寄っただけで、夜中だったので何も見た覚えがありません。
せっかくなので今回の訪問中に、妻が以前参加していたというティクナットハンの流れをくむWild Rose SanghaのZen Practiceと、サンフランシスコ禅センター、すなわち、鈴木俊隆老師の流れをくむカルガリー曹洞禅グループのZen Practiceに参加をするつもりです。
Wild Rose Sangha
Calgary Soto Zen
カナダの中部・東部では、浄土真宗の基盤がしっかりとできているようですが、三宝教団のトロント禅センターを除いては、曹洞禅の流れは、オタワのホワイトウィンド禅センターのことしか知りません。ケベック州にはフランスから禅文化が入ってきていると聞いていますから、調べればきっとわかるのでしょうが・・・
Although we missed the opportunity to celebrate our wedding in Calgary last fall with my wife's friends, we have decided to take a trip down to Calgary this October. While my wife's excited to leave Huntsville for a while to meet her friends, I look forward to visiting a couple of Zen group, one that comes from the lineage of Thich Nhat Hanh and the other from Shuryu Suzuki's San Francisco Zen Center.
Canada has no Zen center or practice group on paper based on the directory of Soto Zen Temple available in Japan. But clearly, there are certain number of Zen centers spreading in the eastern part of Canada from the west coast of the United States. I hear there are also some zen groups in Quebec and Montreal possibly coming from the lineage in France.
Anyway, I feel thrilled to see this fragment of Zen cultures flourishing in Canada.
Posted by Gyokei Yokoyama at
08:13
2013年09月26日
飢えのない国
Leoが生まれてから、カナダが提供する諸々の支援を受けてきました。
他にも、ロナルドマクドナルオ財団のような慈善団体や、オリリアで病気の孤児を育てるご夫婦など個人で慈善活動をする方たちにも援助をして頂きました。
一年近くカナダの地方に住んでいて感じることは、州政府(日本で言えば県政でしょうか)のいきとどいたサービス、それと、国の社会的な税金の徴収法と配分法。
たとえば、障害のある子どもを育てる母親に提供されるrespite care一時療養ケアの補助金などは、家族がその母を支える場合でさえも、本人のサインと日時だけ用紙に記入すれば確実に提供をしてくれる仕組みになっており、それが虚偽の申請であるかどうかといったことは一切問われません。
日本の印鑑と同様に、「サイン」をすること、すなわち、宣誓をする、神に誓うという意味があり、サインをして虚偽の報告や申請をするということは極めて重い罪であるのと同時に、社会的に非常識であるという強い意識が感じられます。
また、今日本でも話題になっている消費税などの税金についても、カナダでは不満を漏らすことはあってもそれが理不尽であると考える人は、この国では少ないように感じられます。それは、システムの根底の部分に、「強者が弱者を守る」という徹底した考え方があるからではないかと暮らしていて思います。
Leoのように障害をもって生まれた人や、病気や怪我で手術が必要な国民には、すべて無料で医療サービスが提供されます。金額にすれば数百万からヘタをすれば二、三千万円を国が支払ってくれているということになります。
消費税にしても、自動車やホテル、宝石、アルコール、タバコ、アイスクリーム等、人間の生活にとって必ずしも必要でないものからとり、パンや米、牛乳や水など日常的になくてはならないものにはほとんどかかってきません。
仕事が順調で収入が安定している人々から、不安定な生活をする人々へとお金が回っていく仕組みが、国のシステムのなかにも、住民の意識の中にもある程度まで出来上がっているように感じます。弱肉強食社会と揶揄される米国の制度とはこの点が大きく違うようです。
米国の人々が、カナダのシステムをより社会的で洗練されたシステムだと賞賛するのは、こうしたGovernance統治の哲学があるからではないかと思います。
今の自分たちは、米国への移住手続きの最中に、子どもが病気で生まれてきたために、就労権がなく仕事ができず、日本での就労も手続きの中で絶ってきているため、結果的に、この国では一時的であれ貧困層に入ることになります。
常に「提供をする側」からの視点しかもちあわせていなかった自分にとって、社会的に支援されるという経験を通して、大切なことを学ばせてもらっているような気がします。
地域の支援団体の中で最近知ったのが、Food Bankという一切補助金を得ずに地域の商工会や協会などの寄付だけで成り立っている慈善事業所で、そこには、無料で提供されたさまざな食品、おむつや離乳食、衣服など生活の必需品が置いてあります。
十代で親になる若者や、親の支えがなくホームレスになる若者がカナダではメディアでとりあげられることがありますが、収入がゼロでもなんとか次世代が子どもを育て、暮らしていけるようなしくみを地域が作っていこうとしていると言えるのかもしれません。
こうした民間の団体はほかの地域にもあるらしく、破産をしようが、病気や怪我で働けなくなろうが、飢えることだけはさせないセーフティーネットがいろいろなかたちで存在しているようです。
ちなみに、Food Bankの母体は教会ということもあって、その目的や活動はとても宗教的な意味合いをもっているようです。
これと同じように、仏教の経典をベースに、ニューヨークでホームレス救済にあたったのがZen Peacemakersのバーナード徹玄老師。
自分も東日本大震災のときには、いろいろな物資を送ってもらえるよう全市に呼びかけたことがありますが、こうした活動が将来、一時的ではなく継続的に仏教寺院やZen Centerを中心にできたら素敵だろうと思います。
_____________________________
The Table Soup Kitchen Foundation
Our Mission
伝道と目的
The Table Soup Kitchen Foundation’s mission is to share Christ’s love in a practical way with people in need.
テーブル・スープ・キッチン基金の目的は、助けを必要としている人たちに役に立つかたちでキリストの愛を分かち合うことにあります。
From the beginning we have been inspired by Jesus' words in Matthew 25:35-41:
マタイ25章35説-41説にあるイエスの言葉が私たちの活動の着想の源です。
"For I was hungry and you gave me something to eat, I was thirsty and you gave me something to drink, I was a stranger and you invited me in, I needed clothes and you clothed me, I was sick and you looked after me, I was in prison and you came to visit me...whatever you did for one of the least of these brothers and sisters of mine, you did for me." (TNIV)
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇えていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがこれらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとリにしたのは、わたしにしたのです。
Our Vision
めざすもの
The vision for The Table Soup Kitchen Foundation is to bring the Church and our community together in service, providing a source of food and connection in the name of Jesus Christ.
テーブル スープ キッチン基金が目指しているのは、イエス・キルストの御名において、諸々の教会と地域が協力をして食糧等を提供することです。
We plan on meeting many more needs in the community in the coming years, including additional meals and hours of operation. Though we are grateful for those who currently share their space with us, we dream of eventually having a home to call our own. Other possibilities include a much needed men's shelter and a drop in café.
今後は、食事の提供とサービス時間を拡大し、さらなる地域のニーズに応じていく所存です。活動のスペースを提供して頂いている皆様には大変感謝をしておりますが、最終的には自分たちの活動の拠点を築いていきたいと思っております。他にも、家を必要とする人たちへの住まいの提供や気軽に立ち寄れるカフェなども考えております。
Our Story
これまでの経緯
The Table Soup Kitchen Foundation began when, following a small group discussion Heather Berg said, "someone should start a soup kitchen in Huntsville." Little did she suspect that the "someone" was her. Over the next few months she felt God leading her in that direction and began researching and laying plans for a soup kitchen. A non-profit organization was founded, and after a benefit concert by Ruth Cassie, the first meal was served at Thanksgiving of 2006.
テーブル スープ キッチン基金は、グループミーティングの場で、ヘザー・バーグ氏が「ハンツビルでスープキッチンの活動を誰か始められないものかしら」と発言をしたことをきっかけにスタートしました。その後数ヶ月にわたって神の導くままに調査を開始し、スープキッチンの構想を練っていきました。こうしてNPOが創設され、2006年のサンクスギビングの祝日、ルース・カシー氏によるチャリティーコンサート後、最初の食事が提供されることとなりました。
A few months later, on Thursday, May 24, 2007, weekly meals begain at St. Andrews Presbyterian Church, serving around 10 guests each week. A year later attendance had grown to 25 and a Monday night meal was added at Community Living. The Monday night meal moved to Trinity United Church in 2009, and by 2010 an average of 40 people were attending the soup kitchen each night.
その数ヵ月後、2007年5月24日火曜日より、聖アンドリュープレスビテリアン教会にて毎週10名ほどの客人らを招いての食事がスタートしました。その一年後、参加者は25名にまで増え、コミュニティーリビングセンターで毎週月曜日夜にも食事が提供されるようになりました。2009年、月曜夜の食事はトリニティー ユナイテッド教会に移され、2010年までに平均40名の人々がスープキッチンに各晩参加をするようになりました。
The Table Food Bank was opened on December 12, 2008 in space donated by Anderson's Produce (during the winter months when they were closed). When spring came Sam Peters Investments graciously offered the storefront next door, and the Food Bank has been operating from there since that point. Today the Soup Kitchen and Food Bank has helped hundreds of people in Huntsville and the surrounding areas, helped by many local businesses, individual donors and over one hundred dedicated volunteers.
テーブル フード バンクが開設されたのは2008年12月12日。場所はアンダーソン農産物会社より冬季の休業期間中に場所を提供して頂きました。春になると隣接するサム ピーターズ投資会社が店舗の店先を快く使わせていただけるようになり、それ以来、フードバンクは活動を継続してきています。今日、スープ キッチンおよびフードバンクは、数多くの地元企業、個人の支援者、そして百名を越す献身的なボランティアに支えられながら、ハンツビルとその周辺地域の数百名をこえる人々の援助をしてくることができました。
Our Leadership
リーダーシップ
Our founder, Heather Berg, provides practical leadership on a day-to-day basis, with the help of a board of directors made up of community members who generously give their time and leadership.
創設者のヘザー・バーグ氏が、地域の代表者から成る理事会の助力を得ながら普段より諸々の実務について指導をしています。
Our current Board of Directors consists of:
理事会の構成役員は以下の通りです。
Heather Berg - President
ヘザー・バーグ 代表
Cindy Mahu- Vice President
シンディー・マヒュー 副代表
Tom Peppiatt - Treasurer
トム ペピアット 会計
George Cassie - Secretary
ジョージ カシエ 書記
Thanks to those who have served on our board in the past: Dan Fera, Alan Paton, Laura Lewis, Virginia Malone, Dottie Barber and Nicole MacLean.
過去に理事会役員を務めて下さったダン フェラ氏、アラン パトン氏、ローラ ルイス氏、ヴァージニア マローン氏、ドッティ バーバー氏、ニコール マクレーン氏の皆様にも感謝申し上げます。
他にも、ロナルドマクドナルオ財団のような慈善団体や、オリリアで病気の孤児を育てるご夫婦など個人で慈善活動をする方たちにも援助をして頂きました。
一年近くカナダの地方に住んでいて感じることは、州政府(日本で言えば県政でしょうか)のいきとどいたサービス、それと、国の社会的な税金の徴収法と配分法。
たとえば、障害のある子どもを育てる母親に提供されるrespite care一時療養ケアの補助金などは、家族がその母を支える場合でさえも、本人のサインと日時だけ用紙に記入すれば確実に提供をしてくれる仕組みになっており、それが虚偽の申請であるかどうかといったことは一切問われません。
日本の印鑑と同様に、「サイン」をすること、すなわち、宣誓をする、神に誓うという意味があり、サインをして虚偽の報告や申請をするということは極めて重い罪であるのと同時に、社会的に非常識であるという強い意識が感じられます。
また、今日本でも話題になっている消費税などの税金についても、カナダでは不満を漏らすことはあってもそれが理不尽であると考える人は、この国では少ないように感じられます。それは、システムの根底の部分に、「強者が弱者を守る」という徹底した考え方があるからではないかと暮らしていて思います。
Leoのように障害をもって生まれた人や、病気や怪我で手術が必要な国民には、すべて無料で医療サービスが提供されます。金額にすれば数百万からヘタをすれば二、三千万円を国が支払ってくれているということになります。
消費税にしても、自動車やホテル、宝石、アルコール、タバコ、アイスクリーム等、人間の生活にとって必ずしも必要でないものからとり、パンや米、牛乳や水など日常的になくてはならないものにはほとんどかかってきません。
仕事が順調で収入が安定している人々から、不安定な生活をする人々へとお金が回っていく仕組みが、国のシステムのなかにも、住民の意識の中にもある程度まで出来上がっているように感じます。弱肉強食社会と揶揄される米国の制度とはこの点が大きく違うようです。
米国の人々が、カナダのシステムをより社会的で洗練されたシステムだと賞賛するのは、こうしたGovernance統治の哲学があるからではないかと思います。
今の自分たちは、米国への移住手続きの最中に、子どもが病気で生まれてきたために、就労権がなく仕事ができず、日本での就労も手続きの中で絶ってきているため、結果的に、この国では一時的であれ貧困層に入ることになります。
常に「提供をする側」からの視点しかもちあわせていなかった自分にとって、社会的に支援されるという経験を通して、大切なことを学ばせてもらっているような気がします。
地域の支援団体の中で最近知ったのが、Food Bankという一切補助金を得ずに地域の商工会や協会などの寄付だけで成り立っている慈善事業所で、そこには、無料で提供されたさまざな食品、おむつや離乳食、衣服など生活の必需品が置いてあります。
十代で親になる若者や、親の支えがなくホームレスになる若者がカナダではメディアでとりあげられることがありますが、収入がゼロでもなんとか次世代が子どもを育て、暮らしていけるようなしくみを地域が作っていこうとしていると言えるのかもしれません。
こうした民間の団体はほかの地域にもあるらしく、破産をしようが、病気や怪我で働けなくなろうが、飢えることだけはさせないセーフティーネットがいろいろなかたちで存在しているようです。
ちなみに、Food Bankの母体は教会ということもあって、その目的や活動はとても宗教的な意味合いをもっているようです。
これと同じように、仏教の経典をベースに、ニューヨークでホームレス救済にあたったのがZen Peacemakersのバーナード徹玄老師。
自分も東日本大震災のときには、いろいろな物資を送ってもらえるよう全市に呼びかけたことがありますが、こうした活動が将来、一時的ではなく継続的に仏教寺院やZen Centerを中心にできたら素敵だろうと思います。
_____________________________
The Table Soup Kitchen Foundation
Our Mission
伝道と目的
The Table Soup Kitchen Foundation’s mission is to share Christ’s love in a practical way with people in need.
テーブル・スープ・キッチン基金の目的は、助けを必要としている人たちに役に立つかたちでキリストの愛を分かち合うことにあります。
From the beginning we have been inspired by Jesus' words in Matthew 25:35-41:
マタイ25章35説-41説にあるイエスの言葉が私たちの活動の着想の源です。
"For I was hungry and you gave me something to eat, I was thirsty and you gave me something to drink, I was a stranger and you invited me in, I needed clothes and you clothed me, I was sick and you looked after me, I was in prison and you came to visit me...whatever you did for one of the least of these brothers and sisters of mine, you did for me." (TNIV)
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇えていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがこれらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとリにしたのは、わたしにしたのです。
Our Vision
めざすもの
The vision for The Table Soup Kitchen Foundation is to bring the Church and our community together in service, providing a source of food and connection in the name of Jesus Christ.
テーブル スープ キッチン基金が目指しているのは、イエス・キルストの御名において、諸々の教会と地域が協力をして食糧等を提供することです。
We plan on meeting many more needs in the community in the coming years, including additional meals and hours of operation. Though we are grateful for those who currently share their space with us, we dream of eventually having a home to call our own. Other possibilities include a much needed men's shelter and a drop in café.
今後は、食事の提供とサービス時間を拡大し、さらなる地域のニーズに応じていく所存です。活動のスペースを提供して頂いている皆様には大変感謝をしておりますが、最終的には自分たちの活動の拠点を築いていきたいと思っております。他にも、家を必要とする人たちへの住まいの提供や気軽に立ち寄れるカフェなども考えております。
Our Story
これまでの経緯
The Table Soup Kitchen Foundation began when, following a small group discussion Heather Berg said, "someone should start a soup kitchen in Huntsville." Little did she suspect that the "someone" was her. Over the next few months she felt God leading her in that direction and began researching and laying plans for a soup kitchen. A non-profit organization was founded, and after a benefit concert by Ruth Cassie, the first meal was served at Thanksgiving of 2006.
テーブル スープ キッチン基金は、グループミーティングの場で、ヘザー・バーグ氏が「ハンツビルでスープキッチンの活動を誰か始められないものかしら」と発言をしたことをきっかけにスタートしました。その後数ヶ月にわたって神の導くままに調査を開始し、スープキッチンの構想を練っていきました。こうしてNPOが創設され、2006年のサンクスギビングの祝日、ルース・カシー氏によるチャリティーコンサート後、最初の食事が提供されることとなりました。
A few months later, on Thursday, May 24, 2007, weekly meals begain at St. Andrews Presbyterian Church, serving around 10 guests each week. A year later attendance had grown to 25 and a Monday night meal was added at Community Living. The Monday night meal moved to Trinity United Church in 2009, and by 2010 an average of 40 people were attending the soup kitchen each night.
その数ヵ月後、2007年5月24日火曜日より、聖アンドリュープレスビテリアン教会にて毎週10名ほどの客人らを招いての食事がスタートしました。その一年後、参加者は25名にまで増え、コミュニティーリビングセンターで毎週月曜日夜にも食事が提供されるようになりました。2009年、月曜夜の食事はトリニティー ユナイテッド教会に移され、2010年までに平均40名の人々がスープキッチンに各晩参加をするようになりました。
The Table Food Bank was opened on December 12, 2008 in space donated by Anderson's Produce (during the winter months when they were closed). When spring came Sam Peters Investments graciously offered the storefront next door, and the Food Bank has been operating from there since that point. Today the Soup Kitchen and Food Bank has helped hundreds of people in Huntsville and the surrounding areas, helped by many local businesses, individual donors and over one hundred dedicated volunteers.
テーブル フード バンクが開設されたのは2008年12月12日。場所はアンダーソン農産物会社より冬季の休業期間中に場所を提供して頂きました。春になると隣接するサム ピーターズ投資会社が店舗の店先を快く使わせていただけるようになり、それ以来、フードバンクは活動を継続してきています。今日、スープ キッチンおよびフードバンクは、数多くの地元企業、個人の支援者、そして百名を越す献身的なボランティアに支えられながら、ハンツビルとその周辺地域の数百名をこえる人々の援助をしてくることができました。
Our Leadership
リーダーシップ
Our founder, Heather Berg, provides practical leadership on a day-to-day basis, with the help of a board of directors made up of community members who generously give their time and leadership.
創設者のヘザー・バーグ氏が、地域の代表者から成る理事会の助力を得ながら普段より諸々の実務について指導をしています。
Our current Board of Directors consists of:
理事会の構成役員は以下の通りです。
Heather Berg - President
ヘザー・バーグ 代表
Cindy Mahu- Vice President
シンディー・マヒュー 副代表
Tom Peppiatt - Treasurer
トム ペピアット 会計
George Cassie - Secretary
ジョージ カシエ 書記
Thanks to those who have served on our board in the past: Dan Fera, Alan Paton, Laura Lewis, Virginia Malone, Dottie Barber and Nicole MacLean.
過去に理事会役員を務めて下さったダン フェラ氏、アラン パトン氏、ローラ ルイス氏、ヴァージニア マローン氏、ドッティ バーバー氏、ニコール マクレーン氏の皆様にも感謝申し上げます。
Posted by Gyokei Yokoyama at
09:07
2013年09月20日
悟りと外国語習得との類似点
鈴木老師は、Zen Mind, Beginner’s Mindの中で、悟りや曹洞宗の「只管打坐」について、外国語を習得するようなものだとお話をされています。
悟りや只管打坐について、自分が自信をもって話せることは限られていますが、外国語を習得するプロセスについてはいくつかお話ができそうです。
今自分はスペイン語を勉強しなおしていますが、日本語の訳に頼りながら、スペイン語の構造を知り、多くの表現に触れながら少しずつスペイン語の感覚をつかめるよう努力をしています。
しかし、一方で日本語を頼りにしている限り、スペイン語を使えるようにならないこともまた英語習得の経験から分かってもいるわけで、スペイン語だけの世界に踏める日がいつくるのか、もしくは、来ないのか、気長に待とうと思っています。
初期段階の言語習得で大切なことは、毎日の反復練習とあわせて、日本語による解釈を離れていくことの二つ。今の自分のスペイン語はこのレベルです。
おそらくは、毎日の修行と、修行についてああでもない、こうでもないという解釈や分析から少しでも離れて、ただ只管に一つ一つの日常の修行の瞬間にリアリティをもって触れるくせをつけていくことと似ているのかもしれません。
鈴木老師は、さらに、悟りについて、それが何かを知ってしまえば、あたりまえの日常となって、何も特別ではないことがわかるということをおっしゃっています。
英語習得では、今のスペイン語と同じように日英辞書から感覚を少しずつ学び、その後、英英辞書、英語だけのペーパーバック、雑誌、テレビといったものに触れ、日本語を通して解釈するくせを離れ、いっさいの解釈を加えずに英語のままものごとを見るくせをつけていきます。そして、それが最後は日常になっていくのです。
ある一つの言語を通して見ている世界も、またそれとは別の言語を通して見ている世界も、いずれも人の生み出したことばのフィルターを通して見る人為的に創られた世界観であることに変わりはありません。
もし、このフィルターを通さないで「あるがままの世界」を見ることができたとしたら、それはものすごい「Liberation 解放」であるような気がします。でも、これが「ありのままだ」と言っている時点で、その世界は解釈のフィルターにかかった世界になってしまうという危険があるのでしょう。
一つの言語から、別の言語に切り替える過程で気がつくこのフィルターの存在は、外国語を学ぶ人たちにとっては、外国語を使えるようになること以上に大きな発見なのではないかと思います。
それでも只管打坐の修行は、一つの言語から別の言語へとフィルターをかえるのとは違い、そもそもそのフィルターを通さずに見るというのですから、こうして言葉にしている時点でNGなのかもしれません。
やはり、日常になるまで毎日の反復でしょうか。。。
Posted by Gyokei Yokoyama at
07:50
2013年09月17日
Beginner's Mind 初心
サンフランシスコ禅センターの創始者、鈴木俊隆老師の著書「Zen Mind, Beginner’s Mind」の冒頭にこんな言葉があります。
“In the beginner's mind there are many possibilities, but in the expert's there are few.”
すなわち、初心には多くの可能性があるが、玄人の心にはわずかな可能性しかない。
“People say that practicing Zen is difficult, but there is a misunderstanding as to why. It is not difficult because it is hard to sit in the cross-legged position, or to attain enlightenment. It is difficult because it is hard to keep our mind pure and our practice pure in its fundamental sense.”
禅の修行は、困難であると言われるが、その理由について誤解されているふしがある。それは、足を組むのが辛いからでもなく、悟りを得ることが難しいからでもない。修行が困難なのは、自分たちの心を純粋に保ち、根本的な意味で修行を純粋に保つことが難しいからである。
永平寺の修行道場でも似たような会話を先輩修行僧から何度か聞いた事を思い出します。
もっとも純粋な修行僧の姿は、山門より道場に入る最初の日、何も知らない学生あがりの二十を過ぎたばかりの若者が、緊張した面持ちで、ある意味死をも覚悟して体当たりで修行に臨む姿に目を覚まされる思いがする。
何年も永平寺で修行をされている方から聞いた言葉でしたから、非常に記憶に残っています。
宗教に限らず、どのような職場、学校、家庭であっても、初心のもつ純粋さと開かれた心を維持することの難しさは共通しているのではないでしょうか。
ロングビーチ佛教会の創始者、浅田老師の心のなかにもそんな純粋さに立ち返りたいという強い願いがあったのではないかと、俊隆老師の言葉を噛み締めながら感じております。
昨日、ロングビーチ佛教会の理事長さんから、教会での仕事の内容に関するレターを頂きました。
His duties will consist of conducting weekly Sunday Services, officiating memorial services, officiating funeral services, represent the church as religious representative for functions in the City of Long Beach as well as Federation functions in Los Angeles. He will serve as publisher of the church newsletter, SANGHA. He will manage telephone calls to and from the church. He will also be responsible for daily management of the church and residence, grounds.
毎週日曜日の礼拝、法事、葬儀。ロングビーチ市の宗教者会議およびロサンゼルスの宗教者連盟会議への参加。教会のニュースレター「Sangha僧伽」の発行。教会受付、その他教会および境内の常時管理。
父や祖父が、若い頃にそうであってように、自分の身の丈にあった環境の中で教会と共に成長を遂げていきたいと思っています。
日本では、自分の力量を超える環境に追い込まれる中で、自らの意思で精神的に燃え尽きるまでひたすらに走ったような気がします。しかし、ここ北米での活動で最も大切にしたいことは「教会と共に、家族と共に成長をすること」といえるかもしれません。
尊敬する鈴木俊隆老師の御教えに触れながら、尊敬する米国仏教僧のネットワークに加わりながら、自分自身の行いと心の内にもいつの日か敬意を払えるようになるよう、等身大の自分のままで、他者の干渉に心を乱されることなく、自らを偽らず歩んでいきたいものです。
“In the beginner's mind there are many possibilities, but in the expert's there are few.”
すなわち、初心には多くの可能性があるが、玄人の心にはわずかな可能性しかない。
“People say that practicing Zen is difficult, but there is a misunderstanding as to why. It is not difficult because it is hard to sit in the cross-legged position, or to attain enlightenment. It is difficult because it is hard to keep our mind pure and our practice pure in its fundamental sense.”
禅の修行は、困難であると言われるが、その理由について誤解されているふしがある。それは、足を組むのが辛いからでもなく、悟りを得ることが難しいからでもない。修行が困難なのは、自分たちの心を純粋に保ち、根本的な意味で修行を純粋に保つことが難しいからである。
永平寺の修行道場でも似たような会話を先輩修行僧から何度か聞いた事を思い出します。
もっとも純粋な修行僧の姿は、山門より道場に入る最初の日、何も知らない学生あがりの二十を過ぎたばかりの若者が、緊張した面持ちで、ある意味死をも覚悟して体当たりで修行に臨む姿に目を覚まされる思いがする。
何年も永平寺で修行をされている方から聞いた言葉でしたから、非常に記憶に残っています。
宗教に限らず、どのような職場、学校、家庭であっても、初心のもつ純粋さと開かれた心を維持することの難しさは共通しているのではないでしょうか。
ロングビーチ佛教会の創始者、浅田老師の心のなかにもそんな純粋さに立ち返りたいという強い願いがあったのではないかと、俊隆老師の言葉を噛み締めながら感じております。
昨日、ロングビーチ佛教会の理事長さんから、教会での仕事の内容に関するレターを頂きました。
His duties will consist of conducting weekly Sunday Services, officiating memorial services, officiating funeral services, represent the church as religious representative for functions in the City of Long Beach as well as Federation functions in Los Angeles. He will serve as publisher of the church newsletter, SANGHA. He will manage telephone calls to and from the church. He will also be responsible for daily management of the church and residence, grounds.
毎週日曜日の礼拝、法事、葬儀。ロングビーチ市の宗教者会議およびロサンゼルスの宗教者連盟会議への参加。教会のニュースレター「Sangha僧伽」の発行。教会受付、その他教会および境内の常時管理。
父や祖父が、若い頃にそうであってように、自分の身の丈にあった環境の中で教会と共に成長を遂げていきたいと思っています。
日本では、自分の力量を超える環境に追い込まれる中で、自らの意思で精神的に燃え尽きるまでひたすらに走ったような気がします。しかし、ここ北米での活動で最も大切にしたいことは「教会と共に、家族と共に成長をすること」といえるかもしれません。
尊敬する鈴木俊隆老師の御教えに触れながら、尊敬する米国仏教僧のネットワークに加わりながら、自分自身の行いと心の内にもいつの日か敬意を払えるようになるよう、等身大の自分のままで、他者の干渉に心を乱されることなく、自らを偽らず歩んでいきたいものです。
Posted by Gyokei Yokoyama at
22:29
2013年09月08日
北米活動の目的
気が付けば、もうカナダの紅葉は始まり少しずつ昼間でも肌寒くなってきました。
今は少しずつ北米布教の旗の下、カナダから米国に移る準備に入っていますが、日本にいた頃から、ここに至るまでの成り行きは、一言では言い表せない程に複雑で、説明し難いものがあります。
曹洞宗では、現在も国際布教師の募集をしています。私も組織としての全体像を把握しているわけではないので誤った理解をしているかもしれませんが、北米で開教師として禅センターなどのご開山ともなってご活躍をされたご老師方の時代と今の時代を比較すると、北米仏教社会では大きな変化が起きているそうです。
戦後、法事や葬儀など先祖供養を中心として日系社会におけるコミュニティーの中心的な役割を果たしてきた日系寺院では、強制収容所での苦しい生活など迫害を受けた経験から日系人の団結も強く寺院を支える護寺会がしっかりとしていたそうです。
その後、日系社会は全体的に高齢化が進み、同時に二世や三世は、キリスト教徒になったり、英語しか使わなくなるなど北米社会へのAssimilation (同化)が進んでいったのだそうです。護寺会の高齢化も随分と進み、90代に突入をしていく中で、おのずと男性の数も減っていき、女性が役を担うようになっていったようです。
ハワイやサンフランシスコ、ロサンゼルス、南アメリカなど大きな日系社会がまとまって存在する地域ではまだまだ安定しているようですが、今回お話を伺っているロングビーチエリアは、日系人が同化しつつ各方面に散っていき、若い世代のあいだでは、寺院に集うことの意義が薄れていってしまったようです。
他にも、意識の低下の要因として、日本語でしか法要や説法が行われないという「言葉の壁」が大きなネックになっていたようです。
今回、ロングビーチ佛教会によって活動の場を与えていただけるのも、自分の経験と考え方が教会のニーズとマッチしているからなのだそうです。
ところで、こうした米国寺院の国際布教師になろうと考えてみえる若い僧侶の方は、非常に多くのステップを踏むことになります。
少なくとも自分の場合はそうでした。
最初は、①出身の寺院の理事会から合意を得る。次に、②北米を総括している総監部の許可を得て派遣候補地となる寺院や教会と接触し、面接と話し合いの上合意を得る。 その後、③北米を総括している総監部から合意を得て、東京曹洞宗宗務庁の国際課に連絡をして頂く。④この後、曹洞宗で国際布教師として任命するかどうかを協議して頂く。
自分がおかれている状況は、④ということになります。
さらに、⑤米国連邦政府ビル内にある移民局に、寺院がスポンサーとなるにあたって問題がないかどうか寺院の規模や活動内容、収入、僧侶に支払われる給与等を提出し、同時に、自分はその寺院の活動を行う力を持っていることを示す証拠書類を履歴書といっしょに提出します。
この寺院から移民局に提出される申請が受け入れられて始めて、米国入りをする準備に入ることができます。
⑥現地寺院側が審査に合格をしたら、その証明書をもって米国大使館(自分の場合はカナダのトロントにある米国大使館)にて面接を受け、書類を提出してビザを発行してもらう。
ロングビーチ佛教会は、今は規模が縮小しており、寺院に十分な収入がないために、自分たちがコミュニティーの拡大を図らない限り、家族で生活を継続していくことが若干困難なのが現状です。その点が、移民局のスポンサーとしての審査において不利に働かないことを祈るばかりです。
これまでにいろいろな禅センターを訪問して感じ取ったことは、いずれの寺院や教会も独立性があり、曹洞宗であれ浄土宗であれ、真言宗であれ、とにかく大きな傘の下にあることで、創始者の意思を曲げるようなことがあってはならないという意志がしっかりとしています。
カナダもそうですが、これはどうも死者の遺言を始め、人間の意志や宣誓を極めて重視する北米文化の影響が多分にあるように思います。
日本でも各地方やお寺の風土を重んじる習慣は常にありますが、日本人的な感性とはちょっと違うように思います。
布教師になるすべてのプロセスが終わったわけではないので、まだ、形式的には布教をしていることにはならないのですが、これまでに見聞きしてきたことから、自分なりにミッションとしていることが四つあります。
一つ目は、ロングビーチ佛教会の山風を守りながら、「Shikantaza」の教義とのつながりを伝えていくこと。無派閥寺院として独自の方法でブッダの言葉を(ちょうど聖書の言葉を引用するように)伝えていく直接的なブッダの教えを英語で伝導しながら、道元禅師の教えとの一貫性を見出していくこと。
二つ目は、白人系佛教社会の本山としてあるロサンゼルス禅センターとの関係の構築と、諸派にわかれていった白人系禅者とのネットワークを強化していきながら共同で活動をする機会を生み出していくこと。
三つ目は、Interfaith 宗教間対話の活動を通して、Godの概念とCausation FlowやPrajana 般若の概念を共通項として仏教徒以外の人たちと交流を図っていくこと。
四つ目は、日本で未完成の状態で保留になってた英語教育とコミュニティー活動に対して、異なる文化圏にいるからこそできる方法で還元をしていくこと。もともと視野に入れていた活動ですが、国内にとどまっていてはクリアできない課題にぶつかっていました。今回の動きがまた当初の狙いとどこかで重なっていってくれたらと思っています。
今回の自分のケースは、現地の方たちにしてみても、実験的な要素が強く。どんな化学反応が起こるか試してみようという、ゆったりとした構えがあります。指導者としてというより、Seekerとして受け入れて下さっており、自分の気持ちを率直に表に出していけそうです。
Posted by Gyokei Yokoyama at
07:37
2013年09月05日
徐々に見えてくる北米仏教社会
その多くの書籍を通じてアメリカに禅の哲学を広めた鈴木大拙教授に続いて、その禅の実践の場を提供した鈴木俊隆老師、前角博雄老師、片桐大忍老師、安谷白雲老師、知野弘文老師等。
自分が直接関わらせていただいた寺院やZen Centerは、サンフランシスコ禅センターを開いた鈴木俊隆老師、ロサンゼルス禅センターを開いた前角博雄老師の二派、それと安谷白雲老師の三宝教団のトロントの禅センター。
それぞれの流派に関わる方たちからお話を伺っていると、いずれの老師も、現地の(アメリカ人の)お弟子さんと共に、現地に合った手法を柔軟に取り入れて仏教の流れを築いてみえたことがわかります。今時の言葉でいえば、ローカライゼーションというのでしょうか。
現地に溶け込むためには、その現地の習慣や言語にあった流れが自ずと生まれるのでしょうが、この仏教のローカライゼーションが、特に法式等を重んじる日本の正統派曹洞宗からすると、どこまでを正統派としていいのか迷うほどの、コントラストの多様さを生んでいるようです。
ダイナマイトロールだとか、カミカゼロールといった名前で登場する寿司やそのバリエーションをどこまで正統派の寿司と呼んでいいのかわからなくなるほど、アメリカ文化に溶け込んでいる現状に若干似ている気がします。
一方、今回関わるロングビーチ佛教会は、Non-denominational無派閥の単独寺院としてスタートした経緯を持つ特殊な寺院です。
創始者の浅田老師の根本佛教の教えに戻ろうという意思と同時にアメリカ社会のなかでそれがどう発展していくかを試そうという意思が面白い形で生きています。
既に今は、そんな当初活躍した方たちの時代からずいぶんと時が過ぎています。
今日の状況について考えてみると、既に仏教の現地化は、特に禅佛教については広範囲で起こっていてるようです。
サンフランシスコでも、桑港寺という永平寺直属の寺院と鈴木俊隆老師とそのお弟子さんによって創設されたサンフランシスコ禅センターが適度な距離を保ちながら併存しています。また、ロサンゼルスにも、禅宗寺という曹洞宗の北米総監部がおかれている寺院がある一方で、前角老師とそのお弟子さんたちが創設したロサンゼルス禅センターが併存しています。
米国人僧侶らの間では、こうした西海岸にある禅センターが本山として大きな意味を持っているようで、中央部や東海岸、カナダに広がっている寺院やサンガのつながりは、日経寺院とはまた別にあるようです。
いろいろな背景があって今のかたちが出来上がってきたことが少しずつわかってきましたが、同じ仏教寺院の間でもこうした文化的なコントラストと思うと非常に魅力的です。
こういう事情のなかで、無派閥寺院という特殊な佛教会に軸足を置きながら、いろいろな組織と接触を図っていくというのはたぶん、自分の性分に非常に合っているのかもしれません。
今少しずつ関わりが強くなってきているのが、前角老師のお弟子さんたちのネットワークです。バーナード・グラスマン老師の兄弟弟子である、玄気老師の紹介で、Wendy 慧玉老師と直接メールでコンタクトを取り始めました。
Zen Center of Los Angeles: http://www.zencenter.org/
先人たちの教えに基づいて形成されてきた米国仏教の流れを受けながら、日本の伝統仏教と比較し、さらに、ロングビーチ佛教会では釈尊の言葉を振り返りながら、教会の精神に則り他の米国仏教寺院のネットワークに参加していく。
これが、現地のニーズとして求められているというのですから、米国入りをするタイミングとして、これ以上のタイミングはないように思います。
現在、具体的な課題として、DS-160という、移民申請フォームの記入をカナダ・米国でしつつ、日本側で書類が整うのを待つ必要があります。
自分の過去の経歴書とSupporting Documentsそれを証明する証拠書類は、ロングビーチ佛教会のミッション(目的)と活動内容に沿って書く必要があるため、ロングビーチ側から書類が送られてくるのを待つことになります。
過去三回の申請の経験から、書類と証拠がしっかりそろっていさえすれば、移民局側は必ずOKしてくれます。内容に抜けがあったり、整合性に欠けていればその後いろいろな意味で不利に働きます。今は、事実に沿った文書を揃えることだけを考えていくことにします。
実際の、教義の伝道などは、宗派性のないBuddha Netというサイトがあり、中立的で一般的にわかりやすい教えがたくさんシェアされています。インターネットの恩恵をここでも感じます。
Buddha Net: http://www.buddhanet.net/
最後に、宗侶として問われる「只管打坐」の伝道については、前角老師のように公案を用いるか、Zen PeacemakersのBearing Witnessのような実践のソーシャルアクションの形態をとるか、玄気老師のようにFocusingなどのスキルを組み込んで紹介するなどしない限り、なかなかにハードルが高く、Militarismなどと誤解をされる危険があることを三人ほどのアメリカ人僧侶から指摘されています。鈴木俊隆老師の流れを汲むサンガがカナダのカルガリーにもあるというのでこの秋に妻の友人宅に泊まりにいきがてら、機会があれば訪問したいと思っています。遠方からオンラインなどで参加できるサンガがあればいいのですが・・・。
Shikantaza: http://en.wikipedia.org/wiki/Shikantaza
すでに多くの経験のあるPaul 玄気老師のZen Garlandで行われる初心者の講習に、この秋からスカイプで参加をする予定です。
Zen Garland: http://zengarland.org/
Posted by Gyokei Yokoyama at
22:52