2013年01月23日

仏教の伝道:「DukkaとSamudaya」

 ブッダが伝えたなかで最も大切な教えが、「Dukkha ドゥッカ」、「Samudayaサムダヤ」、「Nirodha ニローダ」、そして「Marga マルガ」の四つの教えだといわれています。そこに「Karma カルマ」の教えも含めると、宣教師として仏教をまったく知らない人たちに伝えるべき最初の教えが見えてきます。

 仏教が人に与える影響をわかりやすく表現しようとするとき、「ドラゴンマスターになる教えである」と言えそうです。

 炎を吐くドラゴンと友達になり、その力を借りることで、個人の人生や社会のあり方、科学技術の向上や世界平和へとエネルギーを導く技術とその絶え間ない実践と応用であるといえます。

 シッダールタという青年が、探求を続けながら発見したこの世の真実の最初の前提は、この世はDukkhaであるという事実でした。

 生き物は全て、快く迎え入れることのできない出来事に遭遇します。
 生まれ、死に、アクシデントや病気にあい、別れ、会いたくない人間と会い、小さなDukkhaであれば、遅刻や学校の成績や職場の人間関係、家計の収入、家庭内の不和。大きなものであれば人種差別や不況、戦争や気候変動といったものを経験します。

 こうした「快く思えないもの」は、深い感動や喜び、幸せとまったく同じようにこの世の実相を示しており、そこで人はSamudayaを経験することになるというのです。

 Samudayaとは、Dukkhaの火花から起きる心の内側で発生する炎のこと。この炎は、多くの場合ストレスであり、ときに憎しみであり、 悲しみであり、焦りであり、混乱であり、焦燥感であり、絶望である。深い感動や喜び、幸せを経験して燃え上がるSamudayaの炎も、Dukkhaを経験して燃え上がるSamudayaの炎も、同じ炎であり、強烈なショックや悲しみを経験すればこのSamudayaの炎も凄まじい勢いで燃え上がります。

 多くの人は、この炎に焼かれ、鬱になったり、病気になったり、ときには命を失うことさえあるのです。

 しかし、Dukkhaの火花も、Samudayaの炎も常に人生のありとあらゆる場所にあり、人は少なからずこの炎を帯びているし、逆にこの炎がなくては、情熱や友情、優しさといった人間として必要なものも生まれないことになります。

 この世のDukkhaは生き物全てが平等に経験し、そこから経験するSamudayaの炎も同様に生き物全てが経験するものです。

 Samudayaの炎は、過去の辛い記憶やトラウマ、また、良い行いや親切な言葉などあらゆる経験と記憶の累積(Karmaカルマ)を燃料として燃え上がるため、他人のちょっとした一言が強烈な「Dukkha」となり凄まじいSamudayaの炎を生み出すことさえあります。

 日々の行いや言葉、経験や記憶の累積がKarmaとなってSamudayaの炎を強めていることを予め知っておかなければならないというのです。
 
 この二つの教え、DukkhaとSamudayaは、この世の真実であり、誰もが平等に経験するものであることを知っておく必要があります。
 しかも、Samudayaという炎のドラゴンをやっつけてしまっては自分も死んでしまうという矛盾が生まれます。
 一切の生理的欲求や願望は殺してはならない人間が生きる上で不可欠なエネルギーの炎であり、力強いドラゴンであるというのです。

 Samudyaの炎のドラゴンのことを良く知り、このドラゴンを殺すのではなく、このドラゴンを信じ、彼の吐く炎を誘導し、自分の日常の仕事や勉強、家事などに向けることでSamudayaの力をそのままに生きる力へとしていくことができます。
 
 政治活動をしているときに、強烈な社会事業を展開する人たちは必ずこのSamudayaの炎を帯びていました。自分たちもその炎に焼かれながらもなんとかそれを誘導することで大きな事業を成し遂げていくのです。
 強いSamudayaは、自分の身も焼きますが、そのマスターになれば逆に大きな力となり推進力となるのです。
 
 このドラゴンのマスターになる術が、次に仏教が説く二つの教え、Nirodha ニローダとMargaマルガということになります。
  


  

Posted by Gyokei Yokoyama at 14:11

2013年01月20日

日・米連携のお話


 日本での最終面接の前に、数日間出身地の長篠で時間を過ごすこととなりました。いずれはお世話になった方たちに時間をかけてご挨拶に回りたいのですが、今回はごくごくプライベートな範囲でしか人に会っていません。
 
 ロングビーチの復興プロジェクトに関して、米国内から二名ほどの仏教者が声をかけてくださいました。一人はバーナード・グラスマン老師のお弟子さんでハーブをつかった医療に関わる修行道場を考えてみる方、もう一人はサンフランシスコ禅センターで出会った韓国の禅宗寺院のお坊さんのもとで格闘技と仏教を並行して学んでいるという20代のお弟子さでした。

 こうした人たちと一人でも多くつながっていけたら、きっといろいろな良い刺激をもたらすことができるのではないかとつい今後の展開に期待してしまいます。
 長篠の医王寺も来年500年という節目の時期を迎えることとなり、日米連携の仏教行事ができたら素敵だねと現住職と話しています。さしあたって、スカイプやビデオメールなどを集団でつかえるよう寺院用のプロジェクターを用意することになりました。
 
 今は、一人でぽーんと異国の地に飛びそこで孤立して活動をするという感覚ではなく、インターネット環境を活用して常時同時並行的に地球の反対側で活動をすることができるという感覚が強く、布教や寺院活動もグローバル的な視野で進めていくことになりそうです。
 
 日本側と米国側にいい相乗効果が生まれると大変楽しい事業になるのではないかと思います。

 

  

Posted by Gyokei Yokoyama at 12:41

2013年01月15日

Long Beach Buddhist Church

 去る1月9日。カリフォルニア州ロングビーチにあるロングビーチブディストチャーチの理事会から、布教師としての受け入れ承諾の連絡がありました。日本に帰国する前日のことでしたから、非常に嬉しいニュースとなりました。

 このことで、これまでお話できなかったことがこれで少し公表できるようになりました。

 国際布教に関わる際、最も難しいのが受け入れ先となる寺院との間で信頼関係を築くことです。
 その為には、自分が全力で米国社会の中で様々な人種の老若男女に働きかけていける力とやる気があることを知っていただかなければなりません。
 その最初のステップとして、ある米国寺院に言われたのが、日本での立場を一度いっさい忘れて布教活動に専心することでした。

 そこで初めて、職歴、僧侶としての履歴、技能や経験などを評価していただくことになります。もし、ここで受け入れられることがなければ日本へ後戻りをすることはできませんから大変高いリスクがあるといえるかもしれません。

 曹洞宗の代表機関を通して、各寺院の方々と接触し、そのお寺やセンター、チャーチのニーズに応えていけるかどうかを判断して頂き、全てが完全に決まってから、面接を行い、その後、布教師募集に対する応募を行うという一般的な企業の選考とは真逆の流れがあります。
 
 このために、布教師のお話をしたときに、地元の寺院の関係者の中には、既に応募をしてしかる手続きを踏んでしまったという誤解をされた方もみえ、どこのお寺に派遣されるのかはっきりとさせて欲しいとか、そのお寺に浮気をするのならもう出て行ってくれといった批判に近い声も聞こえてきました。

 おそらく今回ロングビーチでの活動が決まらずに終わっていならば、カナダのトロント近郊で就職しカナダ永住という選択肢のみが残されたことになったであろうと思います。布教師として活動する際には、少なからずこうした 「どうなるかわからない」というリスクを負わなければならないことになります。
 誰がどこに布教師として派遣されるかは、当事者も含めて最後までわかりません。

 カリフォルニアのロングビーチ仏教教会は、「超宗派」もしくは無宗派の仏教布教活動拠点であり、その建物はキリスト教の教会と同じつくりで、「Preaching」教義を伝え、ブッダその人を讃えるためにあるようです。
 
 北米文化では、老いや衰えをみせる高齢者の姿を町中でみかけることはほとんどありません。
 社会の中に死や老い、病といったものを見えなくしている文化や風潮があるように感じられます。

 同様に、その社会で求められる仏教は、死ぬことを教える仏教ではなく、生きることを教える仏教。
 受身で教わる仏教ではなく、自らが会得して勝ち取る熱意の仏教。
 北米では仏教が新興宗教として生き方を教える宗教であるからこそ、若い世代に認められ受け入れられているという現実があります。
 おそらく、永平寺修行時代に欧米から来た僧侶らに出合い、こころ惹かれるようになったものとは、死ぬことと生きることを同じように学ぶことができ、人を具体的位幸せな生き方へと力強く導いていける西洋の仏教のあり方だったように思います。

 完璧な社会なんてものはありませんから、これから北米社会のさまざまな問題を知ることになるような気がします。
 北米文化の中には死や老いを肯定する日本仏教の洗練された感性が必要であるような気がしますし、日本文化の中にも、人生を楽しく生き生きと営んでいくために必要な西洋仏教の力強さが必要であるような気がします。

 また、思わぬかたちで、北米と日本の生活、相互の間にある文化の差異から、今の日本がかかえる課題と同時に、日本社会の優れた点に気がつくこともできます。

 子どもの頃から、一生をかけてでもやってみたいと思っていた日本の文化圏と北米文化圏の異文化コミュニケーションの活動が、いよいよ具体的な形で始まります。本当に幸せな限りです。



 
 





  

Posted by Gyokei Yokoyama at 22:12

2013年01月03日

西洋における仏教に対する期待




 仏教の最も根本的な教えに「苦」があります。
 生老病死はすべて苦であるという教えがありますが、もともと釈尊が使った言葉が何を意味したのかについては今も議論が続いているようです。

 マガダ国の現地の言葉であるマガダ語を使ったであろうともいわれる釈尊の教え。

 口伝によってのみ教えが広がった時期が数百年間も続いたこと、その後、パーリ語とサンスクリット語によって経典がつくられ、チベット語、中国語へと翻訳されていくなかで釈尊の言葉はいろいろな言語や文化のフィルターを通して今に至っていると考える人も少なからずみえるようです。

 「苦」はDukkaという言葉で表現されていますが、日本語の苦しみ、英語のsufferingではこの言葉の概念は十分に伝えきることができないのではないかという人もいます。

 「心地好くないもの」、「病んだ状態」など、もともとの言語は広い意味を包含していたのではないかといわれています。

 仏教や禅について、いろいろな人たちと話をしている中で、肌で感じたことがあります。主観的なものではありますが、少し書き留めておこうと思います。

仏教を西洋の人が一般的に求める理由には次のようなものがあるようです。

① 「善」と「悪」といった白と黒の二元論から人を解放してくれる為
② 自らを灯火として内側から自己を変革させていく積極的な姿勢を促してくれる為
③ 教義(Dogma)によって人間をしばらず、人間に自由を与えてくれる為
④ 人生で不快と感じるもの(Dukka)そのものを通して真理へと導く明快さがある為

 さらに「Zen」という言葉については、その言葉の意味を知らない人たちの間でも、おおよそ一般的に「オーガニック」、「ベジタリアン」、「ヨガ」、「瞑想」「自然で無害なもの」、「シンプルで美しいもの」といった肯定的なイメージを連想する人がほとんどのようです。
 Zenという言葉が、独自に進化をして西洋の人たちの間で親しまれていることは確かです。

 お寺に「癒し」や「静けさ」を求めるのが東洋の人たちだとすれば、「積極的な自己啓発」「ストレスマネージメント能力」、「宗教的な教義からの人間解放」などを西洋の人たちは求めているといえるかもしれません。

 個人差は当然あるものの、仏教や禅に対する社会のイメージや期待するものが東西で違うことを知っておくことは重要だと強く感じ始めています。
  

Posted by Gyokei Yokoyama at 12:05

2013年01月03日

オンタリオ州の教職員ストライキ


 オンタリオ州の教員のストライキについて、夫婦そろって教師をしている妻の友人から直接現場の話をしてもらいました。

 根本的な原因には、教師という仕事に対する理解や聖職としての敬意(Respect)を欠いた政治や保護者など学校を取り巻く関係者に対する憤りがあるようです。

 以前日本で聞いたことのある日本の先生の忙しさや保護者対応などの苦労話をしたところ、日本の教職員の労働環境の苛酷さはカナダ始め他の国の間でも有名な話なのだということを教えてくれました。

 ストレスを抱えながら耐え忍ぶ日本のような環境がいいのか、戦ってストライキをするオンタリオ州のような姿勢がいいのか、お話を伺っていていろいろなことを考えさせられました。

 放課後の問題については、学校が終わった後、子どもの多くはスポーツや習い事に行くそうです。日本と状況はそれほど変わらないようです。

 ただ、スクールバスなどが子どもを直接習い事やスポーツをするところまで連れて行ってくれるサービスもあるようです。どこまで公費でまかなわれているのかはわかりませんが、共働きの多く、なおかつ車で登下校をする子どもの多いカナダの山村部ならではのサービスなのかもしれません。

  

Posted by Gyokei Yokoyama at 11:00