2013年01月15日
Long Beach Buddhist Church
去る1月9日。カリフォルニア州ロングビーチにあるロングビーチブディストチャーチの理事会から、布教師としての受け入れ承諾の連絡がありました。日本に帰国する前日のことでしたから、非常に嬉しいニュースとなりました。
このことで、これまでお話できなかったことがこれで少し公表できるようになりました。
国際布教に関わる際、最も難しいのが受け入れ先となる寺院との間で信頼関係を築くことです。
その為には、自分が全力で米国社会の中で様々な人種の老若男女に働きかけていける力とやる気があることを知っていただかなければなりません。
その最初のステップとして、ある米国寺院に言われたのが、日本での立場を一度いっさい忘れて布教活動に専心することでした。
そこで初めて、職歴、僧侶としての履歴、技能や経験などを評価していただくことになります。もし、ここで受け入れられることがなければ日本へ後戻りをすることはできませんから大変高いリスクがあるといえるかもしれません。
曹洞宗の代表機関を通して、各寺院の方々と接触し、そのお寺やセンター、チャーチのニーズに応えていけるかどうかを判断して頂き、全てが完全に決まってから、面接を行い、その後、布教師募集に対する応募を行うという一般的な企業の選考とは真逆の流れがあります。
このために、布教師のお話をしたときに、地元の寺院の関係者の中には、既に応募をしてしかる手続きを踏んでしまったという誤解をされた方もみえ、どこのお寺に派遣されるのかはっきりとさせて欲しいとか、そのお寺に浮気をするのならもう出て行ってくれといった批判に近い声も聞こえてきました。
おそらく今回ロングビーチでの活動が決まらずに終わっていならば、カナダのトロント近郊で就職しカナダ永住という選択肢のみが残されたことになったであろうと思います。布教師として活動する際には、少なからずこうした 「どうなるかわからない」というリスクを負わなければならないことになります。
誰がどこに布教師として派遣されるかは、当事者も含めて最後までわかりません。
カリフォルニアのロングビーチ仏教教会は、「超宗派」もしくは無宗派の仏教布教活動拠点であり、その建物はキリスト教の教会と同じつくりで、「Preaching」教義を伝え、ブッダその人を讃えるためにあるようです。
北米文化では、老いや衰えをみせる高齢者の姿を町中でみかけることはほとんどありません。
社会の中に死や老い、病といったものを見えなくしている文化や風潮があるように感じられます。
同様に、その社会で求められる仏教は、死ぬことを教える仏教ではなく、生きることを教える仏教。
受身で教わる仏教ではなく、自らが会得して勝ち取る熱意の仏教。
北米では仏教が新興宗教として生き方を教える宗教であるからこそ、若い世代に認められ受け入れられているという現実があります。
おそらく、永平寺修行時代に欧米から来た僧侶らに出合い、こころ惹かれるようになったものとは、死ぬことと生きることを同じように学ぶことができ、人を具体的位幸せな生き方へと力強く導いていける西洋の仏教のあり方だったように思います。
完璧な社会なんてものはありませんから、これから北米社会のさまざまな問題を知ることになるような気がします。
北米文化の中には死や老いを肯定する日本仏教の洗練された感性が必要であるような気がしますし、日本文化の中にも、人生を楽しく生き生きと営んでいくために必要な西洋仏教の力強さが必要であるような気がします。
また、思わぬかたちで、北米と日本の生活、相互の間にある文化の差異から、今の日本がかかえる課題と同時に、日本社会の優れた点に気がつくこともできます。
子どもの頃から、一生をかけてでもやってみたいと思っていた日本の文化圏と北米文化圏の異文化コミュニケーションの活動が、いよいよ具体的な形で始まります。本当に幸せな限りです。
このことで、これまでお話できなかったことがこれで少し公表できるようになりました。
国際布教に関わる際、最も難しいのが受け入れ先となる寺院との間で信頼関係を築くことです。
その為には、自分が全力で米国社会の中で様々な人種の老若男女に働きかけていける力とやる気があることを知っていただかなければなりません。
その最初のステップとして、ある米国寺院に言われたのが、日本での立場を一度いっさい忘れて布教活動に専心することでした。
そこで初めて、職歴、僧侶としての履歴、技能や経験などを評価していただくことになります。もし、ここで受け入れられることがなければ日本へ後戻りをすることはできませんから大変高いリスクがあるといえるかもしれません。
曹洞宗の代表機関を通して、各寺院の方々と接触し、そのお寺やセンター、チャーチのニーズに応えていけるかどうかを判断して頂き、全てが完全に決まってから、面接を行い、その後、布教師募集に対する応募を行うという一般的な企業の選考とは真逆の流れがあります。
このために、布教師のお話をしたときに、地元の寺院の関係者の中には、既に応募をしてしかる手続きを踏んでしまったという誤解をされた方もみえ、どこのお寺に派遣されるのかはっきりとさせて欲しいとか、そのお寺に浮気をするのならもう出て行ってくれといった批判に近い声も聞こえてきました。
おそらく今回ロングビーチでの活動が決まらずに終わっていならば、カナダのトロント近郊で就職しカナダ永住という選択肢のみが残されたことになったであろうと思います。布教師として活動する際には、少なからずこうした 「どうなるかわからない」というリスクを負わなければならないことになります。
誰がどこに布教師として派遣されるかは、当事者も含めて最後までわかりません。
カリフォルニアのロングビーチ仏教教会は、「超宗派」もしくは無宗派の仏教布教活動拠点であり、その建物はキリスト教の教会と同じつくりで、「Preaching」教義を伝え、ブッダその人を讃えるためにあるようです。
北米文化では、老いや衰えをみせる高齢者の姿を町中でみかけることはほとんどありません。
社会の中に死や老い、病といったものを見えなくしている文化や風潮があるように感じられます。
同様に、その社会で求められる仏教は、死ぬことを教える仏教ではなく、生きることを教える仏教。
受身で教わる仏教ではなく、自らが会得して勝ち取る熱意の仏教。
北米では仏教が新興宗教として生き方を教える宗教であるからこそ、若い世代に認められ受け入れられているという現実があります。
おそらく、永平寺修行時代に欧米から来た僧侶らに出合い、こころ惹かれるようになったものとは、死ぬことと生きることを同じように学ぶことができ、人を具体的位幸せな生き方へと力強く導いていける西洋の仏教のあり方だったように思います。
完璧な社会なんてものはありませんから、これから北米社会のさまざまな問題を知ることになるような気がします。
北米文化の中には死や老いを肯定する日本仏教の洗練された感性が必要であるような気がしますし、日本文化の中にも、人生を楽しく生き生きと営んでいくために必要な西洋仏教の力強さが必要であるような気がします。
また、思わぬかたちで、北米と日本の生活、相互の間にある文化の差異から、今の日本がかかえる課題と同時に、日本社会の優れた点に気がつくこともできます。
子どもの頃から、一生をかけてでもやってみたいと思っていた日本の文化圏と北米文化圏の異文化コミュニケーションの活動が、いよいよ具体的な形で始まります。本当に幸せな限りです。
Posted by Gyokei Yokoyama at 22:12